テキサス研究留学日記

テキサスに放牧された大学院生が博士号を取るまでの奮闘記と、その後の話。

震災日記【東日本大震災時に記した3日間の手記】

こんにちは。Dr. Saitoです。

 

懐かしの日記転載シリーズ。

 

今日で東日本大震災から7年が経ちました。あの瞬間の出来事がもう7年も前のことだなんて、時の流れの速さを感じずにはいられません。

もちろん、”まだ”7年しか経

っていないので今も沿岸部に行くと復興にはまだまだ時間がかかることを感じるでしょう。

 

でも、恐ろしいかな、記憶は風化していきます。私は経験者ですから、一生忘れることはないでしょう。でも経験していない人はどうでしょうか?

関心が薄れる中、またあんなことが起きてしまったら、と思うと何かできないかなと考えてしまいます。

だから、私が考える「防災・減災」としては、震災の経験をシェアして、疑似体験から色々学んで準備をすること。もしくは、当事者ならこの経験を忘れずに、非経験者に伝えていくことだと思います。

 

 

以下の日記は、当時私が仙台在住の学生だった時に遭った東日本大震災について、地震発生前後から、仙台を脱出するまでの3日間の手記です。

手記なので、原文そのまま載せます(日本語の間違いはご容赦ください)。

 

 

ちなみに、下記の経験から学んだことは、要約すると以下の三点です。

  1. 非常用持ち出し袋は用意したほうがいい(空腹が辛かった。私はこの出来事以降、常に3日分の食料と水を用意しています。)
  2. 情報の取捨選択は慎重に(デマが本当に多かったです。2日目の10mの津波、化学工場から有毒ガス、原発爆発…、本当だったのは原発だけでした。)
  3. 人とのつながり・助け合いを積極的に(一人は心細いです。すごいストレスです。他の人と話をするだけでも心が落ち着きます、助け合いは会話を生みます。)




 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

地球が暴れている。 


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震災1日目 

いつものように部活をし、筋トレをして、接骨院に行って、自宅に帰ってきた。 
今日はこれから研究室に行こうか、街に出てショッピングでもしようか。 
なんてことを考えながら、シャワーを浴びていた。 

3月11日 午後2時46分 

ガタガタ揺れ始めたのは、ちょうど身体を洗い終わって、頭からシャワーを浴びているときだった。 

お、地震か・・・ 
最初はこの程度の揺れだったのだが、横揺れに変わった瞬間 
大きく前後左右に身体が揺さぶられた。恐怖を感じる。 
パニックになって、浴室から飛び出した。 
キッチンでは、机のお茶はこぼれ、炊飯器は落ち、冷蔵庫は踊っていた。 
部屋に入ると、棚は崩れ、書棚から何冊も本が落ちている。 
とにかく揺れが長い!やっとのことで、テレビをつけた。 
緊急地震速報の警告音が響き、5秒ほど経つとテレビが消えた。 
停電か。 
ライフラインは止まった。(水道はわからない) 
最近PCが調子悪く、ネットができないため、情報が無い。 
とにかく、東北太平洋沖で巨大な地震が起きたんだ。 
きっと津波も起きるだろう。 
ただ、これだけ家がめちゃくちゃに散らかったのに、こんなもんか 
意外と、大丈夫なのでは?とも思った。 
仙台は、地震の多い地域で、耐震はしっかりしていると知っていたからかもしれない。 
外を見ると、家の瓦は飛んでいるけど、全壊家屋は近くに見受けられない。 

あ、また地震、でかい! 
余震が発生して、また恐怖に見舞われる。 
とにかく、情報が無い。寂しさもあってか、とにかく大学に行こう。 
電話、メールが使えないので、ツイッターで自分の無事をつぶやいて 
濡れた全身を拭きながら、さっさと準備して散らかりきった家を出た。 
外に出ると、人々が外に出ている。みな不安そうな顔だ。 
僕は車を出した。 
道の所々に石が散乱し、木の枝が落ちていた。 
信号も機能していない。みな譲り合って交差点を通過する。 
途中の牛越橋の上でまた強い余震に襲われる。 
橋の上なので車が上下左右に揺さぶられ、恐怖に慄く。 

午後3時30分頃 

やっとのことで大学につき、友達を発見しては、互いの無事を喜んだ。 
このころになると、車のラジオやツイッターのおかげで 
この地震の規模などが分かってきた。 
震源 三陸沖 M8.4 栗原市震度7 大津波警報 10M以上 
津波がすでに到達。 名取川を津波が逆流。 気仙沼市大部分水没 
・・・これは大変なことに巻き込まれたと改めて痛感した。 

大学生協は無償で水やパンを配り始めたので、僕は水3リットルとパン5個 
おにぎり3個をもらった。これで2日は大丈夫だ。 
ケータイのメールはたまに受信できるくらいで、まだ通じなさそうだ。 
無事確認メールを様々な人から頂いたが、なかなか返せなかった。 
そうこうしているうちに、雪が降り始めた、寒い。 
あっという間に辺りは真っ白になった。 
大学本部は忙しなく動く。 
理学部化学棟から煙が発生し、辺りに嫌な薬品の臭いがする。 
上空にはヘリが飛び回り、消防車だろうか、サイレンの音が鳴り響いている。 
友達が言っていたが、我らの学び舎、物理A棟は壁が所々崩れ、亀裂が入り、部屋がめちゃくちゃらしい。 

午後5時頃 

大学本部から帰宅指示が出た。僕は大丈夫だったが、八木山住の友達は大変そうだ。 
八木山橋が隆起して通行不可らしい。 
僕は途中会った研究室の人たちと別れ、家に帰ることにした。 
車に乗り込んで理学部を出るのだが、もう大渋滞だ。 
車に乗っているうちに、辺りが暗くなった。 
このころになると、ラジオのおかげで被害の状況も少し把握できてきた。 

東北太平洋沖地震 M8.8(国内最大規模)1900年以降世界5番目の規模 
南相馬市津波7.3m 仙台新港津波10m以上 死者、行方不明者多数 
仙台空港 水没 
女川町 壊滅的 
津波が仙台市内陸10キロまで押し寄せる。 
ぞっとした。 
まるで映画だ。 

渋滞はひどい。道には所々ひびがあり、歩道は隆起している。 

仙台はどんどん闇に包まれていく。 
星だけは、とても綺麗だった。 

午後8時頃 

やっとのことで帰宅。 
たった4キロの道のりなのに3時間もかかった。 
車で来たことを後悔した。 
この頃には頼みの綱のケータイも電池が1つになっていた。 
車の中でだいたいのメールに返信したが届いているかわからない。 
これ以降ケータイは使えない。とりあえず寝よう。 
電池式ラジオをつけ、懐中電灯で天井を照らしながら、目をつぶった。 

震災2日目 

夜、余震で何度も起きた。1~2時間おきくらいだろうか。 
長野の方でも地震があったそうだ。ラジオから聞こえてきた。 

午前6時頃 

ラジオによって起こされた。緊急地震速報の音が鳴り響く。 
朝だけで3、4回聞いただろうか、もう聞き慣れた。 
ラジオは、だんだん明らかになってきた被害の様子を語る。 
関東にも影響を起こしているようだ。 
すさまじい。 
仙台市若林区で津波に巻き込まれた遺体が200~300体ほど転がっている。 
ショッキングだ。 
また、各県の港町の様子を、ほとんどが「壊滅的」と表現されている。 
心が痛む。 
また、役場が水没して機能していないところが多いらしく 
まだ被害の全容が分からないらしい。 
不安な時間はつづく。 

記 3・12 午前7時50分 

午前8時頃 

とにかく情報収集のため、外に出た。天気は晴れ。 
大崎八幡宮の石碑はほぼ全壊だった。 
とりあえず食料調達のためスーパーに並ぶ。どうやら販売してくれるそうだ。 
8時半に並び始めて12時にやっと買えた。3時間半並んで2日分の食料(ビスケットなど) 
を確保した。ちなみに僕が並んだときは50mの列だったが、12時頃になると 
その列は400mに達していた。いったい何時間かかるんだか。 

午後1時頃 

東北大学の予知観測研究センターにいって情報収集をする。 
発電機により多少の電力があり、ケータイの充電を少しした 
テレビも見れた。そこで初めて津波の映像。沿岸の状態が分かった。 
とてもショッキングな映像で、言葉を失った。 
・・・あ、地震の解説に、松澤先生が出てる! 
その場の空気が少し和らぐ。 
ケータイの充電を終えて出発しようとする頃には、松澤先生は帰ってきた。 

ケータイのメールの返信をして、予知観を出て、ガソリン節約のために 
自転車に乗り換えて町に出た。 
東に行くほど、被害の状況が悪化する。道路陥没、地割れ、仙台城址の城壁崩落・・・ 
日没が近くなったので、戻って東北大の避難所に行った。 
ここでラクロス部の同学年と待ち合わせ、無事を喜び、あす(3.13)からの遠征についてMTGを行った。 
もちろん中止だが(笑) 
配給のカレーを食べ、あす朝10時からの炊き出しの情報を得て避難所を出る。 
再び予知観へ情報収集に行く。 
原発が、ヤバいことになってるな。 
そして、公式には死者600名、行方不明500名以上 
非公式には仙台市・名取市・岩沼市で合計500名以上の遺体あり 
陸前高田市で300~400体の遺体あり 
南三陸町の町民の7割(1万人)行方不明 

もう、こうなってくると言葉も出ない。 

避難所には電気が来たが、うちは今日も真っ暗だ。 
この生活、いつまで続くのだろうか。 

記 3・12 23時20分  


震災3日目 

8時30分頃 

財布の中身がいよいよ寂しい状況になってきたので、銀行に行った。 
銀行は、この震災でも臨時で営業してもらえた。 
仙台を脱出するのに十分なお金を得て、朝の炊き出しを貰いに中の瀬橋の下に行った。 
炊き出しでは、豚汁とご飯だった。今の自分にとっては御馳走だった。 
午後になって、原付で東の方へ走った。 
港の方へ行ってみようと思った。 
津波がどこまで来たのか、少し興味があったからだ。 
仙台港の内陸7キロ付近で、少し津波の跡があった。 
といっても、少しゴミや泥がある程度。 
もう少し行ってみよう。これが間違いだった。 
仙台港付近の内陸3キロ付近に来た時、あまりの光景に息をのんだ。 
写真を撮ろうと思ってカメラを所持していたが、カメラを手に取ったところで 
シャッターを押せなかった。 
身の毛も弥立つ光景、まさに地獄絵図。 
車は鉄柵に刺さり宙に浮いた状態で制止し 
太い幹線道路は泥にまみれていた。 
そんな中、半分つぶされかけた家の家主だろうか 
家の壁を神妙な面持ちで掃除をしている人がいた。 
その時僕は激しい自分に対する嫌悪感に襲われた。 
家主は興味本意でやってきた僕をみて、どんな気持になっただろうか。 
考えただけで申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 
写真には残さなかったが、心の中には一生消えることのない光景だろう。 
津波の恐ろしさと被害にあった住民の悲痛な表情は。 

午後7時頃 

東北大の避難所に到着した。ラクロス部で今後の部の運営に関するミーティングを行った。 
とりあえず、3・26に幹部ミーティングをすると決め、それまでオフになったので 
実家に帰ろうと思った。 
電気は今日の6時頃復活したが、食料の問題があったからだ。 
本当に、食料が無いのだ。だから、もう少し状況がマシであろう実家に帰る。 


そして、今 
交通機関がマヒしていて、脱出ルートを探すのに苦労しました。関東のやつらに情報を送ってもらってなんとか、山形~鶴岡~新潟回りで帰還できそうです。 

この東北・関東大震災、最終的には世界4例目のマグニチュード9.0 
津波などで死者1300名以上 安否不明1万人以上。 
未曾有の災害となりました。 


この3日間、当たり前のことができなかった。 
文明に依存しきった生活だったんだなと本当に思います。 
本当に恐ろしくもあり、貴重な体験をした3日間でした。 


これより、仙台・脱出します。 



3・14 午前1時 記