テキサス研究留学日記のその後の話(後編)
こんにちは、Dr. Saitoです。
今回のテキサス渡航の話の続き(最終話)です。
苦難を乗り越えて自信をつかめ!
3ヶ月のプロジェクトを任され、とてつもない不安に襲われながらも初日の仕事が終わりました。幸運にも、その日は金曜日で、週末に精神的・肉体的な疲れを回復することができます。ドタバタした中での唯一の収穫は、英語に対して、前回ほどの苦労がないという点でした。もちろん、流暢に英語を話すことはまだできませんが、基本的な生活をする上で語学力不足は感じませんでした。
さて2017年9月4日、月曜日です。
この頃には「とにかく、ボスは自分に期待してこのプロジェクトを任せてくれたんだ、それに自分の実力を示すチャンスだ。頑張ろう!!!」と思うようになり、やる気がメラメラと湧いていました。とにかく100%集中すれば、きっと3ヶ月で終わるはず!
しかし、そのやる気をあざ笑うかのように立て続けに仕事が降って来た。
- 学生が書いた論文の添削
- 科学研究費のプロポーザルアイデアの創出
- 3年プロジェクト(新しいテーマ)
そしてこう思った。
「きっと研究者の仕事量ってこんな感じなんだな。」
自分の中の固定観念がガラガラと崩れて、何か地殻変動が起きている気がした。
悩んでいる暇はないので、まずは論文の添削から始めました。しかしこれが鬼門で、論文のクオリティがあまりにも低く、結局ほとんどの章を書き直すことになりました。こんなことに時間を使っている余裕はないのに。
3年プロジェクトについては、去年の留学中に聞いていた内容でした。さすがに、ボスも今の3ヶ月プロジェクトを優先してくれという話をしていましたが。これは新しいテーマであり、ボスが私の研究者としての幅が広がるようにと与えてくれたテーマでした。
このように、様々な仕事が与えられた結果、プロジェクトを期限内に終わらせることができるかといった不安は不思議と消え去りました。そんな不安も感じている暇はないということです。すると、頭の中はクリアになり、不思議と3ヶ月プロジェクトのためのアイデアがたくさん出て来ました。
特に、家に帰ってシャワーを浴びている時にアイデアが浮かび、それを書きなぐって翌日デスクで数式の確認を行うといったことを繰り返していきました。これがResearcher's Highってやつかな?
私生活でも状況は好転して来ました。この町には数十人の日本人がいるようですが、そのうちの10人程度と知り合う機会がありました。みんなで一品持ち寄って居酒屋パーティーを行い、久々の日本の味覚を楽しむとともに、いろいろな暮らしの情報などを得ることができました。
その後、家具も必要なものは買い揃え、車も購入して行動範囲が格段に広がりました。研究では、まだまだ知識不足からなかなか研究が進まないような苦しい時期もありますが、学びと実践を繰り返して一歩一歩ゴールに向かっているような状況です。徐々に研究と生活の歯車が噛み合って来て、追い風で帆もいっぱいに膨らみ始めたような気がします。そして気づいたら、1ヶ月が経っており、筆をとることにしたのです。
雑感と今後の展望
研究者という職種は、お金も稼げないし仕事中もずっと楽しいわけではないので、これまでの学歴を考えると、金銭的には”割に合わない”仕事なのかもしれない。しかしながら、金銭以上の魅力があるからこそ続けられるのだと思います。
誰も知らない新しいことをやるのだから、最初は何もわからなくてなかなか研究が進みません。そういった苦しい時間を乗り越えて小さな進歩を得られるのです。そしてまた壁に当たり苦しい時間が流れ、またそれを乗り越える。そして最後の壁を乗り越えた時、何にも変えられない達成感が得られるのです。
その達成感は、論文という形となってこの世に出回り、自分の財産になります。これがもう最高なわけです。
さて、3ヶ月プロジェクトも全体のおよそ40%の時間が経過しました。まずはこれをしっかりと完了してボスの信頼を勝ち取ります。今後も、勉強と実践を繰り返して、研究者として一回りもふた回りも大きくなって、いずれ日本に戻って日本の科学技術発展と未来の研究者の育成に貢献しようと考えています。
自分の10年後を想像することは容易ではありません。でも、何かぼんやりとでも10年後のヴィジョンを持っていれば、それを叶えることは可能です。およそ15年前の中学校卒業文集で「10年後は科学の道に進むだろう」と書いていた、あの日の僕のように。
これから(まずは)3年後、自分は一体どうなっているかな?皆様にも一方的ではありますが、いち研究者の人生の歩みにお付き合いいただきます。
これからも、たまにここで近況を報告します。宜しくお願いします。
テキサス研究留学日記のその後の話(中編)
こんにちは、Dr. Saitoです。
今回のテキサス渡航の話の続きです。
怒涛のテキサス渡航後
2017年8月30日、時差ぼけで頭がぐるぐるする中、ようやくCollege Stationに到着しました。本当ならば、Houstonに到着してからレンタカーを2・3日借りてCollege Stationに向かい、ついでに日用品購入など生活を整える予定でしたが、予定を変更してCollege Station空港から迎えに来てもらうことにしました。
前回の渡航である程度の人脈を作っていたので、今回は非常に助かりました。
そこから、最寄りのレンタカーのオフィスまで連れて行ってもらいました。さて、ここからの予定の流れとしては、
- 携帯ショップにてプリペイド携帯の購入
- 銀行にて口座の凍結解除手続き
- アパート入居
- 家具・日用品の購入
- 大学にcheck-in
これらを一両日中に行い、9月1日から仕事開始というハードスケジュールの予定でした。しかし、そのための最初のステップであるレンタカーのオフィスでトラブルが。
僕「車をレンタルしたいのですが。」
スタッフ「君は"資格"を持っているかい?」
僕「(?)"資格"ってなんですか?」
スタッフ「今はHurricane Harveyで車にダメージを受けた人だけが車をレンタルする資格を持つんだ」
僕「」
なんということでしょう。この瞬間の状況を説明しましょう。
- 連絡手段なし
- 交通手段なし
- スーツケース4つの荷物(総重量85 kg)
- アパートまで4 km
- 気温33度
- 時差ぼけ
- 仕事開始まであと2日
頭を抱えたくなる状態でした。あの時の気持ちが去来します。
「なんだか悪い予感がするな」 旅路につきながら、そう思わずにいられませんでした。
テキサス研究留学日記のその後の話(前編) - テキサス研究留学日記
勘というものは当たるのだなと。1分ほど落ち込んだあと、スーツケース4つを抱えてアパートまで歩いていく決心をしました。汗だくになりながらスーツケースを引きずり歩いていると、後ろから声をかけられました。振り返ると白く輝くトヨタSUVに乗った中年夫婦が
中「君たち、乗って行きな!」
僕「い、いいんですか〜!!!」
そういえば、以前こんなことがありました。
引っ越しは大変だった。旅行鞄4つを転がしながらホテルから引っ越し先までの4kmの道のりを歩く。大変すぎて途方に暮れていると、一台の車が止まり手招き。引っ越し先まで乗せていただいた。アメリカ人は優しい。
テキサス研究留学日記(3)〜到着から1ヶ月まで〜 - テキサス研究留学日記
この町の人はとても優しい。この暑い中スーツケースを4つも引きずって歩いているから、たまらず助けたのだと。車中、色々な話をしました。自分は前にもスーツケースを運んでいる途中に助けられたこと。これから研究者として働くこと。この人はトヨタ車が好きで、この車でもう23万mileも走っているということ。などなど。「僕の名前はBrettだ。何かあったら連絡しな!」名刺までもらい、何度も感謝しながらアパートにて、そのトヨタ車を見送りました。Brett、この恩は一生忘れない。
その日は結局、携帯電話と自転車の購入のみ行い、疲れ果ててアパートの部屋の床で就寝しました。
翌日、硬い床でしたが、精神的・肉体的な疲れもあり、朝8時頃まで爆睡していました。さて、昨日消化できなかったやる事を今日中に終えなければなりません。車がないので自転車で動き回ります。まずは、銀行口座の凍結解除です。実は、前回の渡米の際にまたテキサスに戻ってくることがわかっていたので、まとまった金額を銀行口座に入れておいたのです。これが、今回の生活のセットアップの資金でした。口座凍結解除に必要な書類を準備していると、
僕「・・・無い。」
僕「無い、無い、無い!」
僕「パスポォートがああああ、無いいいぃ〜〜〜!」
僕「(発狂)」
家のどこを探しても自分のパスポートが無いのです。これがなければ、銀行口座開設はおろか、大学にCheck-inもできず、仕事を開始できません。パスポートの再発行となれば、Hurricane Harveyで甚大な洪水被害の中、Houstonの日本大使館に赴かなくてはなりません。というか、そもそもレンタカーが借りれないのだからその交通手段もありません。はいオワタ。こればかりは一時間以上落ち込みました。
あの時の気持ちが去来します。
「なんだか悪い予感がするな」 旅路につきながら、そう思わずにいられませんでした。
テキサス研究留学日記のその後の話(前編) - テキサス研究留学日記
ああ、これが本物か。ああ、なんてことだ。しかし、一時間以上落ち込んだところで(当たり前だが)状況は何一つ変わりません。まずは駄目元で銀行に行って凍結した口座の解除を試み、それから昨日訪れたところを隈なく捜索することにしました。自転車にまたがり、さて行くかと覚悟を決めた時、一台の車が目の前に現れました。
見覚えのある、白く輝くトヨタSUVでした。
Brett「車の後部座席にパスポートを見つけたんだ。君のだろう?」
僕「そ、そうです!」
宗教によって色々あるだろうが、もしこの世に神がいるならば、今の僕にとってBrettがそれでした。さらに、まだ生活環境が整っていないことを言うと、一緒に買い物に行ってくれることに。3時半にアパートに来てくれると言うことで、それまでに他の手続きを行うことになりました。
それからは、銀行口座凍結解除、大学にCheck-inを立て続けに終わらせ、Brettと買い物に行きました。お店は全てBrettのオススメのお店。寝具、バス用品から食材などを2時間程度で一気に行いました。
Brett「これは"Power shopping"っていうのさ!」
何もなかったアパートの部屋が一気に整い、まるで夢のようでした。Brettには感謝の意を表して、富士山が描かれた和扇子を贈りました。これでも全然足りないのだが、Brettはとても喜んで、「また困ったことがあったら連絡して!」と言い残して去って行きました。
後でわかったことだが、Brettの名刺にはC.E.Oと書かれており、数百人の従業員を抱える社長であることがわかりました。これぞリーダーだ、こんなリーダーの元で働ける従業員は、きっととても幸せなのだろう。僕はこの先、理想の人間像としてBrett以上の人が現れることはないだろうと思いました。僕もこんな人になりたい。
その日も疲れ果てたが、その日に届いたふかふかのベッドで就寝しました。
いよいよ仕事開始!
さて、いよいよ9月1日になり、こちらの大学で仕事が始まりました。といっても、今日は事務手続きが中心で、大学の中の施設を行ったり来たりしました。ある程度仕事が落ち着いた午後、前回の留学の受け入れ教授であり、グループの上司であるY教授に呼ばれました。いよいよ研究課題を与えられます。研究内容なのであまり詳しくは言及できないが、そこには、
- 今までにない"新しい"雲の物理量の推定手法の開発
- 10年分のそれらのデータを用いた気候学的特徴や変動の解明
- 1ヶ月毎に報告書を提出
- プロジェクトの期限は2017年11月30日
最後の一文で我が目を疑った。前回の留学の際も"新しい"雲の物理量の推定手法の開発研究だったが、論文を書き上げるまで9ヶ月を要しました。それが今回たったの3ヶ月で開発だけでなく10年分のデータ解析をしなくてはならないのだから、胃がキリキリと痛くなるのを感じました。
俺(これ、論文2本分を3ヶ月でやるのか)
早速試されている。研究室の友人にこの話をしたら、どうやらこのプロジェクトについてY教授は今年1月からあてを探していて、9ヶ月経ってしまったのだという。そして、僕が来たらそのプロジェクトがアサインされたのだと。
考えれば考えるほど、胃がキリキリと痛くなる。昔の留学当初の気持ちを思い出していました。当時の日記には、苦しい心境の中、必死に自分を鼓舞するような言葉が書きなぐられていました。でもあの時も結果的に乗り越えたんだ。今回だってやってやる!!!
早速折れかけた心を立て直し、立ち上がろうとするのだが、
それを妨げようとするものは、無情にもさらに降ってくる大量のタスクだった。
続く
テキサス研究留学日記のその後の話(前編)
こんにちは、Dr. Saitoです。
数日前の雨以降、テキサスはカラッとした爽やかな秋の空気に包まれています。今日でテキサスに戻ってきてからちょうど1ヶ月経ちます。
渡航前から色々バタバタしていてなかなか近況報告ができなかったのですが、ひとまずこちらでの仕事や住環境整備が落ち着いてきたので、テキサスの渡航が決まってから今日までのことを振り返りたいと思います。長くなったので3部構成です。
テキサス渡航決定から準備まで
事の始まりは、去年のテキサス研究留学中、
それはある日、嬉しそうにテキサスの指導教員が私のオフィスに飛び込んできた。 指導教員「お前を雇う研究費を獲得したんだ。博士をとったらテキサスに来ないか?」 私「…!」
テキサス研究留学日記(6)〜完遂編〜 - テキサス研究留学日記
博士取得後の就職先探しのタイミングがなく、どうしようかと考えていたところに、留学受け入れ先の教授からオファーがあり、無事進路が決まりました。
と言っても、正式なオファーはOffer letter によってなされるので、博士の学位を取得後の4月上旬にもらいました。4月からテキサス渡航までの間は、所属していた東北大学の研究グループでポスドクをさせていただくことになりました。Offer letterには勤務開始日が2017年6月1日からとなっていたので、2ヶ月で準備を済まして渡米することになりました。
前回のテキサス渡航はJ-1 visaで行いました。今回の渡航もOffer letterにJ-1 visaと記載されていたので、前回と同じ手続きということで安心して、テキサスの大学の国際科に渡航手続きと書類の準備について問い合わせをしました。
ここで、旧J-1 holder に重要なお知らせですが、J-1 visaにはTwo-year-rule という、帰国後、最低2年間はvisaで渡米できないという規則があります。これは、J-1 visaが、あくまでも交換交流を目的としているためです。しかし、私のパスポートのJ-1 visaには、"Two-year-rule does not apply"と書いてありますので、今回の渡航には影響がないことを意味しています。
それにもかかわらず、大学の国際科からはこのような返事が来ました。
国「あなたはJ-1 visaで渡航することができません。」
俺「・・・」
さすがに訳が分からず、「どうせむこうが間違えているのだろう」と思いながら、Two-year-ruleについて、またそれが自分には当てはまらないことを丁寧にメールで説明しました。すると、
国「Two-year-ruleとは別に、一度J-1 visaを取得したら、次のJ-1 visaを取得するまで2年以上期間をあけないといけない。あなたは、まだ2年経っていないから、少なくともJ-1 visaでの渡米はできない。」
俺「!!!」
なんと、J-1 visaには別の”Two-year-rule”が存在していました(いや、単に私が知らなかっただけですが)。これは、Offerを出した大学側も把握している人は少なかったようで、受け入れ先からは急いで対応すると連絡が入りました。
こうして1週間後、大学から改めてOffer letterをいただきました。そこには就労ビザ(H1-B visa)での渡航と記載されていました。就労開始日は同年9月1日に改められました。それから程なくしてH1-B visaでの渡航準備が始まりました。
H1-B visaの手続きは、基本的には受け入れ先が行います。その中で、必要な書類を伝えられ、それらを準備して受け入れ先に送ります。通常、手続きには半年程度かかると言われていますが、多くの場合、受け入れ先が幾らかのお金を支払うことで、visaに関する手続きが数週間から1ヶ月程度に短縮されるPremium process にて手続きを行うことになります。
しかし、米国の政権が変わった翌年2017年4月3日、かの大統領はあろうことかPremium process を廃止しました。これで、状況は一転します。およそ半年かかるvisa手続きのために、できるだけ早く書類を集める必要があります。この時点で、半ば9月の渡航は諦めて、visa取得後できるだけ早い時期に行ければいいな(12月頃かな?)と考えていました。書類をかき集め、受け入れ先に提出したのが5月の末でした。
それからは、一時的にテキサス渡航の事を忘れて、東北大でのポスドク生活を楽しむが如く、研究に精を出していました。新しい研究分野に足を入れ、学ぶことが楽しくて仕方がありませんでした。
夢中になって解析を進めていた7月上旬のセミが鳴くある暑い日に、受け入れ先から連絡をいただきました。
受「就労許可が政府から出たからH1-B visaを取得してくれ」
俺「あれ、早くね?・・・」
研究が面白くなって来たところで嬉しいんだか悲しいんだかよく分からない感情が去来したことを覚えています。1週間後、H1-B visaに必要な書類がレターパックで送られて来て、7月下旬にアメリカ大使館でvisa 面接を受け、8月の上旬にH1-B visa付きのパスポートを受け取りました。
これで、いろいろありましたが、ようやく9月からテキサスで研究者として働くことができます。
いざ、渡米!
東北大での研究は、結局終わらずバタバタとしながらも引き継ぎをして、いざ渡航まで数日となったところで、あるニュースを見ました。
Hurricane Harveyがテキサス州沿岸部を襲い、大都市Houstonでは甚大な洪水被害が発生していました。
そして何を隠そう、私の航空チケットの行き先がそのHoustonだったのです。慌てて航空会社に確認したところ、もちろんその便は欠航。渡航数日前にDallas経由College Station行きの便に変更しました。また渡米当日には、妻がホテルに携帯電話を忘れてタクシーで空港とホテルを往復したりのドタバタ劇でした。
「なんだか悪い予感がするな」
旅路につきながら、そう思わずにいられませんでした。
そして、その予感は程なくして見事に当たるのでした。
続く
J-1 visaでアメリカ研究留学
注意:下記の情報は2015年12月時点で筆者が体験したものです。visa手続きなど当時のものから大きく内容が変更している可能性がありますのでご留意願います。
こんにちは、Dr. Saitoです。
私は、このブログを本格的に始めた当初、アメリカのテキサス州にある大学に自身の研究のために留学していました。
今後、研究者を目指す大学院生にとって、研究のために海外に滞在する(学位留学とは別)ための間口はどんどん広くなるように思います。そんな大学院生にとって、「これを見れば留学の手順の大枠がつかめる」ようなページがあれば便利だなと思い、自身の体験を踏まえて研究留学の画策から、留学に至るまでのスケジュールをまとめたいと思います。
下記の内容の対象となるのは、大学院生か博士取得後の研究者が、初めてJ-1 visaで米国に渡航する場合です。結婚していて奥さんを連れて行く場合にも一応対応。想定としては、学振の書類を書きながら「どこかに1年くらい研究留学を組み込めればな〜」と、ぼんやり思っている人向けです。すでに研究留学を見据えて動いている人はこのブログを見ないだろう笑。
概要
1)渡航先を決める(渡米1年〜4ヶ月前)
2)J-1 visa申請の必要書類を揃える(渡米4ヶ月〜2ヶ月前)
3)アメリカ大使館にて面接(渡米2ヶ月〜1ヶ月前)
1.渡航先を決める
研究留学で最も大事な部分である受け入れ先の選定は、早ければ早いほど良い。言わずもがなだが、この時点で研究課題が決まっていることが絶対条件です(でないとそもそも選べない)。できれば、事前に国際学会等でもいいので、受け入れ先の先生と顔を合わせておくといいでしょう。
また、渡航費や滞在費をどちらが出すかという点も渡航先決めに大きく影響を及ぼします。自分の研究費(日本学術振興会特別研究員、留学のための奨学金など)で行く場合、渡航先決めのハードルは大きく下がります(米国の場合)。(欧州では、そうでもないようで、むしろ欧州の大学は一部お金を出したり、留学する学生にDouble Degree Programに応募させる場合もあるらしい)。
私の場合は、当時の指導教員と受け入れ先の教授が知り合いでした。渡航の1年半前の国際学会で実際に受け入れ先の教授にお会いして話をし、また、滞在期間や研究内容(作業の分担など)の具体的な話は渡航の半年前から行っていました。研究費や滞在費は自分持ちだったので、トントン拍子で話が進みました。
以上のことから、考えられる2パターンは
- 留学予定日の1年以上前から受け入れ先の教員と密に連絡を取り合い、研究計画を双方で練りながら受け入れを承諾してもらう。
- 研究費もしくは資金を取ってきて、研究計画に適した受け入れ先を探し、コンタクトを取る。
もちろん、上記の両方を行うことが望ましいです。
ちなみに、話がまとまってもそのまま指をくわえて待っていては、留学手続きも遅れをとってしまいます。「留学手続きに時間がかかるから、今すぐにInvitation letterを送ってもらえませんか?」と念を押すこと。3日経っても返信がこなければ、(忙しすぎて)忘れている可能性大。待つスタンスではなく、自分から動くスタンスで!
2.J-1 visa申請の必要書類を揃える
留学の受け入れ先が決まったら、次はvisa手続きです。J-1 visa面接に必要な書類は渡米1ヶ月半〜2ヶ月前を目安に全て集めたいところです。必要な書類のうちDS-2019は受け入れ先大学を通じて発行されるもので時間がかかる(およそ1ヶ月)ため、まずはこちらの発行に必要な書類から集めましょう。
DS-2019の発行に必要な書類(全て英字)
- Invitation letter
- 収入・研究資金の証明書(銀行の残高証明など)のコピー
- 渡航期間をカバーする旅行保険証のコピー
- 渡航期間をカバーするパスポートのコピー
- CV(履歴書)
- 大学院時代の成績証明書
- 学位証明書(※博士号取得者のみ)
- 研究計画書(受け入れ先と相談を重ねて)
- 語学力証明書(TOEFLなど)※大学院生の場合のみ?
青字は、同行家族がいる場合に人数分必要なもの(J-2 visa)。ちなみに同行家族が増えると、収入・研究資金の証明書(銀行の残高証明など)の下限額が厳しくなります。
鬼門なのが、語学力証明書。TOEFLは大体の大学がの大学が80点以上を条件としている(おそらくMITとかCalTechはもっと高いだろう)。スコアを持っていない場合は受験まで時間がかかったり、また受験費用も高いために何回も受けられないので、自分の語学力に自信がないなら早めに準備することをお勧めします。
もし、受ける時間的猶予がない場合、もしくは受かりそうもない場合は大学に問い合わせるといいでしょう。ビデオ会話テストと称して語学力のテストを行ってもらえます(そして、余程酷い語学力でなければ合格するだろう)。
上記の書類に加えて受け入れ先が指示したフォーマットのDS-2019リクエストフォーム(Webからダウンロードして取得)などに情報を記入して、合わせてレターパックに入れて受け入れ先に返送する。
DS-2019に必要な書類を送ったら、visa面接に必要な他の書類も集めましょう。
Visa面接に必要な書類(全て英字)
- DS-2019
- DS-160(webからオンライン作成)
- カラー写真(実物、電子データ)
- SEVIS支払い領収書(webでクレジットカード払い)
- 面接予約確認書
- 戸籍謄本または婚姻証明書(とその英字翻訳)
青字は、同行家族がいる場合に人数分必要なもの(J-2 visa)。緑字は同行家族のうち配偶者が必要なもの。うちの場合は、自分で翻訳しました(でもこれで大丈夫でした 笑)。面接予約確認書はvisa面接予約後に手に入ります。また補足資料として、DS-2019で必要だった書類も用意しましょう。子供を連れて行く場合はわかりません(予想は戸籍謄本とその翻訳だけど)。面接予約確認書以外の書類が全て揃ったら、webからvisa面接予約を行います(同行家族も含めて一度予約を行えばよい)。面接の日時を選んで登録したら、面接予約確認書をプリントアウト。当日持っていきます。なお、面接の時間は、なるべく早い時間帯が良いです。理由は後述。
3.アメリカ大使館にて面接
さて、面接当日になったら朝イチで会場に向かいます。溜池山王駅を拠点とすると良いでしょう。駅のコインロッカーは何箇所かありますが、溜池山王駅11番、12番出口付近のコインロッカーがもっとも利便性が良いと思います。ちなみに、アメリカ大使館に最も近い出口は13番出口です。
多くの人が余裕を持って面接時間の30分前に来るので、30分も長蛇の列に並ぶことになります。なので、面接の時間が最も早い8時だと、あまり外で待たされることもありませんが、8時半や9時だとかなりの時間を外で待たされます。できるだけ早い時間に予約しましょう。また、時間に余裕を持つことも大事です。私の場合は、予定時刻の1時間以上前に来て、溜池山王駅13番出口からほど近いドトールで朝食を食べました。
アメリカ大使館の中には、携帯電話、面接に必要な書類、小さなバッグ(25 cm × 25 cm)以外持って行くことができません。なので、ノートパソコンなど持ち込み不可のものをコインロッカーに預けることを忘れずに。私の場合は、小さなトートバッグに携帯電話と書類を入れて行きました。
面接予約時間の30分前にセキュリティーチェックを受け大使館内に入ります。入口の受付で、全ての書類を見せて、建物の中に入ります。窓口に行って番号を受け取り、自分の番号が呼ばれるまで待ちます。自分の番号が呼ばれたら、面接スタートです。まずは、書類を提出し、指紋を取ります。次に隣の窓口に行き、英語で面接をします。訊かれた質問は、
「大学はどこ?」-->東北大学です。
「アメリカに何しに行くの?」-->研究です。
「何の研究をしているの」-->大気科学の研究をしています。
「滞在が終わった後はどうするの?」-->日本に帰って研究します。
以上。その場でJ-1 visaが承認された旨を知らされ、注意事項が書かれた書類を渡されて面接終了です。1週間以内に、visaスタンプ付きのパスポートが送られて来ます。
いかがでしょう?結構時間がかかるので、早め早めを意識して動くといいということがわかると思います。ちなみに私の場合は、
- 2015年8月31日:Invitation Letter が届く
- 2015年11月2日:DS-2019発行のための書類を送る
- 2015年11月30日:J-1 visa面接のための書類集め完了
- 2015年12月4日:J-1 visa面接
- 2015年12月10日:J-1 visaスタンプ付きパスポートを受け取る
- 2015年12月31日:渡米
というスケジュールでした。見てわかる通り、書類集めに手間取りました。当時書類集めにかなり焦っていて精神的にきつかった記憶があります。書類集めを終えてから面接まで4日でしたが、時期によっては予約可能日が1ヶ月先である場合もあるようです。私はラッキーでした。もう一度言いますが、早め早めに動いてください。
それではみなさん、J-1 visaで研究留学を楽しんでください!
ためになるリンク集
第8回全日本ラクロス大学選手権大会・準決勝(神戸大学 vs 東北大学)
こんばんは、Dr. Saitoです。
研究者として、日々研究に励んでいますが、実は昔はスポーツマン。大学ではラクロスに没頭していました。
当時副キャプテンだった頃は、全国大会に出れるほど強くはなかったですが、最近の後輩たちは3年連続で全国大会に出てくれています。youtubeで後輩たちの勇姿が見れるので、ここに載せておきます。
2016年11月20日
第8回全日本ラクロス大学選手権大会・準決勝
【ラクロス Lacrosse】神戸大学vs東北大学 1Q-2Q【全日本ラクロス大学選手権大会】格闘技Japan Collegiate Championships
【ラクロス Lacrosse】神戸大学vs東北大学 3Q-4Q【全日本ラクロス大学選手権大会】格闘技Japan Collegiate Championships
リモートセンシングの光と闇
こんにちは、Dr. Saitoです。
懐かしの日記転載シリーズ。これは、2016年の博士課程3年生の時に後輩と話していたことの備忘録です。当時は、研究があまりうまくいっていないせいか、かなりネガティブに考えていました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
とある日の後輩との議論の備忘録。
まぁ、端的に言えば、自分の研究にエキサイトしてないな〜って話。
まずは、私の研究対象について簡単に紹介する。
リモートセンシングとは
Remote sensing: リモートセンシングとは、地上、人工衛星、あるいは航空機に搭載された測器を用いて測器から離れた対象物を観測することであり、遠隔探査と訳す。
例えば、人工衛星から積乱雲や台風の特徴を測るのもリモートセンシング技術が必要だし、身近なことだと、車の自動ブレーキも広義のリモートセンシング術と言えよう。
実はこれが今私が取り組んでいる研究のテーマであり、かれこれ4年間リモートセンシング技術の開発に携わっている。
何故、リモートセンシングの世界に飛び込んだかというと、主に以下の2つである。
- 学習の自己鍛錬
- 好奇心
リモートセンシングは、基盤となる放射伝達理論はもとより、光散乱理論、統計理論、誤差伝搬などといった様々な知識を必要とする。よって、この学生期間にしっかりと学習できると思っていたことが一番の理由である。
また、ただの電磁波の信号を物理的に解釈して、雲の厚さや粒の大きさの情報を推定することができるので、「なんて興味深く、刺激的で、面白いんだ!」と思ったのも大きな理由であり、この好奇心が研究を続けるエネルギーの根源になっている。
大気科学分野に限って話しても、リモートセンシングによって推定する対象は大気微粒子*1や雲の特性、温室効果ガスから地表面特性まで多岐に渡る。
それぞれの対象に合わせてアルゴリズム*2をデザインする。上質なものだと立案からコード開発、完成まで最短でもおよそ1年かかる。
楽しかった博士前期と鬱々とした博士後期
博士前期では、夢中になって勉強しては試行錯誤を繰り返す過程が楽しかった。早くアルゴリズムが動くようにしたいと思い続けながらあっという間に過ぎた(完成は修士論文提出直前となり、3日連続徹夜するなどドタバタした)。
学ぶこと全てがキラキラして見えたし、リモートセンシングの魅力にどっぷりと使っていたように思う。
しかし、博士課程後期に入り、そのキラキラはだんだん薄れてきた。学べば学ぶほど、元をたどれば全て同じ理論にたどり着く。結局既存技術の組み合わせの問題で、この研究で何ら新しいことをしていないのではと疑問を持つようになった。自分の研究のオリジナリティとは何か?この研究、自分ではなくてもできるのではないか?それなら、自分が研究者であることの意義は何か?
このようなことをぐるぐると考えては苦悩の日々を過ごしていた。なぜこうなってしまったのか。原因はわからないが、悩んでいても仕方がないので以下の解決方法を考えていた。
- 先人の知恵を見ないで自分で突き詰めていく
- 諦める
- とことん深く勉強する
1と3は似ているようで違う。ちなみに、同じ分野の後輩は、一時的に(2)を選んでいた。
私はどうだろう。
結論は出ていないけど、研究者は先に進むしかない。博士を取る頃には、結論出ているといいな。
2016年6月10日 記
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
さて、現在実際に博士号を取ったので、およそ一年前の疑問に答えを与えることとしよう。
まず、その後この研究はどうなったかというと、既存の手法に則ってはいるものの、複数の手法を組み合わせた点や、誤差解析などを緻密に行った結果、新しい物理量の定量的な推定に成功しました。これは、個人的には胸を張ってもいい結果だと思っています。
それが博士論文の本丸となり、学位取得に至りました。
既存の手法でも、組み合わせのアイデアや緻密な解析は誰もができることではありません。机上の空論は誰ても展開できますが、それを実際のシステム・プロダクト開発となるととてつもない苦労を強いられます。でも、それをやったのですから、誰でもできるとは思っていません。これこそが、自分が研究者であることの意味づけになった気がします。
既存の手法を組み合わせ、膨大な作業を要するが、なるべく近似を用いずに物理法則に則って解く。それをコツコツと積み重ね、新しい知見を生み出す。
それはとてもエキサイティングなことではないか!!
今でも、リモートセンシングの研究に携わっていますが、毎日楽しいです。
というわけで、当時の悩める私に対しての答えは、
「研究における"自分らしさ"を誇りにもって、邁進する」
です。
これからも頑張るぞ。